昨日、学生の自己紹介文に「東京は今八時です」といったような全く不適切な文が含まれていた、ということを書きました。
あれからいろいろ考えたんですが、やっぱり私がきちんと指導しなかったのがよくなかったのだと反省しました。「自己紹介」というのは、きっとどの言語の話者でも同じようなこと(名前、出身地など)を述べるのだと思うのですが、それは私の勝手な「思い」でしかないんですよね。もしかしたらある言語話者の間では、朝何時に起きるかということが自己紹介の内容として認められるかもしれない...。可能性は低いと思うんですが、でももしかしたらあるかもしれない。
学生にとって日本語は「未知の世界」です。「英語と日本語は違うんだから、自己紹介の仕方も違うのかもしれない」と考える学生がいてもおかしくないわけです。私は「自己紹介なんか英語でしても日本語でしても同じでしょ。当然学生はわかるはずだわ」と思っていました。その結果、自己紹介にはどんな内容が適切なのかということを学生と話し合わず、私が「当然だ」と思っていたことを学生も「当然」わかっている「だろう」という予測のもと、宿題を出してしまったわけです。今回の自己紹介文の宿題は、こちらの考え、意図をきちんと伝えなければいけないなあ、と思わせる一件でした。
...あ、でも口頭で自己紹介の練習はさんざんしたんだった...。じゃ、やっぱり学生の「空白は埋めねば」妄想が「東京は今八時です」につながったんですかね。
4 comments:
これは考えなくては行けない問題だとは思うんですが、はまりすぎると何にも出来なくなってしまいますよねえ。やっぱり学生には習ったことは使う(現実でどうするかよりも、こちらの方が大切)という学校教育の悪いところがしみ込んでいるんでしょうねえ。
「もしかしたらある言語話者の間では、朝何時に起きるかということが自己紹介の内容として認められるかもしれない」そうですね。自己紹介というものに対するframeは言語特有のものがあってもおかしくないですよね。例えば、日本では所属を述べることが「当たり前」ですが、アメリカではそうでもないかもしれないとか。深く考えたことなかったけど、たしかに何時に起きるかが自己紹介の一部であるかもしれないですね。
学生って何て言うか、「教師が何を求めているのか」っていうことをすごく考えてますよね。それは現実世界のコミュニケーションの「相手が求めている情報を提供する」というのとは全く別なわけで...。最近、「自分の頭で考えて、こちらが働きかけなくても自分で何とかやってほしい」と強く思うんですが、その反面「何で期待されていることができないの?」といらだつことが多いのも事実です。私も学校教育の「毒」におかされているんでしょうね。
ヒロシさんが「日本では所属を述べることが「当たり前」ですが、アメリカではそうでもないかもしれないとか」と書いていますが、他にも例えば日本の履歴書には生年月日を書くけれども、アメリカでは書かない、とかありますよね。同じ英語の履歴書でも、ビジネス界では短いほうがいいけれども、大学など学者の世界ではそうでもなかったりとか。「当然」「常識」と思われていることを疑ってみることが必要なんでしょうね。
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